百合の約束






なんだかこれって、ちょっとしたファンタジーなのかもしれない。


 夏休みに入ったばかりの深夜。里子は何故か祖母の家の庭に立っていた。何故かと言われれば、ちょっとしたお告げがあったからだ。
「これはこれは・・・ちょっとすごいかも」
興奮を抑えながらも、思わず口走る独り言。当然深夜なので、祖母も寝ているはずだし、ここから数分かかる里子の家からここまで、誰一人出会わなかったが、
一応乙女の身だしなみとして、寝巻きのままで外に出るのはまずい、と妙な常識が頭に浮かび、手近にかけてあった中学の制服を着ている。
これが夢でないことは、走って来たせいもあって心臓やら肺やらがバクバク音をたてているので、確かだと思うが、それでも里子は頬を何度かつねっては現実を実感していた。
祖母の家は、カントリー風の白い家だ。家よりも庭の敷地の方が広く、庭には一年中花や緑が咲き誇っている。
小さい頃から祖母の庭が大好きだった里子は、毎年心待ちにしている事があった。
「やっぱり白にして正解だったなー。月の光を一身に受けてる感じ」
ようやく落ち着いてきた呼吸で一度深呼吸をして、ゆっくりと庭の真ん中にある小さな花壇に近づいていく。
その花壇は、いつも庭の手入れを手伝うご褒美に、と祖母が作ってくれた里子専用の花壇だ。里子は毎年、その花壇に一種類の花の種を撒いて育てていた。
赤いレンガで丸く縁取られた花壇の中で、今年の花はピンと背を伸ばして誇り高く、気品すら漂わせながら、両手を広げるようにしわ一つない花弁を広げて当然のように月のスポットライトを浴びていた。
里子は側にしゃがみ込んで、指の先でその白い花弁をそっと撫でてみる。
「この子、純潔っていうより高貴って感じかな。高飛車っていうか」

 ―失礼ね

 里子は思わず手を引っ込めて注意深く辺りを見回した。どこかで虫が鳴いている。
水を撒いて風を呼び寄せるせいか、この庭は夏でも涼しく快適だった。
仕事一筋の母親にも似た大人の女性の声。この声はつい最近どこかで聞いた声だった。
里子は深夜にここに来る事になった原因を思い出して、おそるおそる一輪の百合を覗き込む。月の光のせいか、それは妖しい白い光をまとって自ら輝いているように見えた。
「ええと・・・今のはあなた?」
半信半疑ながらも、小声で話しかける。傍から見れば花に話しかけてる女子中学生だが、深夜なので誰かを気にする事もない。
それでも心臓の跳ねる音が外まで飛び出しそうな勢いだった。
  ―何度も呼んでやったんだから、ちょっとは感謝しなさいよ
 やっぱり間違いない。これって実は夢なのかも。
里子は注意深く百合に顔を近づけた。当然ながら口も目もないが、その声は確かに百合の方から聞こえてくる。
あれこれ考えるよりも、この百合の声だと断定した方が、すっきりするので、あまり深く考えないようにした。
「じゃあ夢で私を呼んだのって、あなたなんだ」
  ―そうよ。じゃなきゃ今あんたがここに居る理由にならないでしょう
 何度聞いても母親に似ている。なんだか怒っているような口調までそっくりだ。
仕事柄か元の正確か、母親はきびきびした性格で、父親似の里子のマイペースを理解できない、といつも愚痴っていた。
  ―あんたが花を咲かせる時には絶対に呼んでちょうだい、と言ったんじゃないの
 確かに言った。自分の育てた花が咲く瞬間は一番にこの目に留めておきたいものだ。毎年その瞬間が来るのを楽しみにしていた里子だが、今年はちょっと特別のようだった。
「そりゃそうだけど。まさか本当に呼んでくれるとは思わないじゃない」
夢の中で誰かに呼ばれたような気がして。理由はわからないけれど、それはあの百合の声だと頭が理解して。気付いたら夜の街を全力で走り抜けていた。
  ―それなのに、綺麗、の一言もないなんて。高飛車ですって。
百合は随分と憤慨しているようだった。正確な高飛車の意味なんて、国語辞典でも調べない限り分からないけれど、
今の百合にはぴったりの言葉だと思ったが、さらに機嫌を損ねられても困るので、あえて言わなかった。
「ごめんごめん。綺麗に決まってるじゃない」
駄々をこねる子供をあやすように、一番優しい声で百合をなだめた。百合は少し風に揺られて顔を上げる。
  ―本当?
「当たり前でしょ。誰が世話したと思ってるの」
長年の土いじりのせいか、花を育てるのには自信があった。祖母の指導もあり、何があっても毎日欠かさず手入れを怠らなかったのだから。
百合は気を取り直した様子で里子を仰ぎ見る。
 ―だったら、私のお願い、聞いてくれるわよね?
「ええ?」
どこをどうしたらお願いを聞く理由になるのだろう。里子が思わず呆れると、百合はすかさず念を押してきた。
  ―だってあんたのお願いを聞いたんだから。私は約束通りあんたを呼んだでしょう?
   だから私のお願いを聞いてちょうだい
どうやらこの百合は、何かを里子にさせる為に呼んだらしい。自分の姿を育ての主に見せるよりも、自分の用事が大事というわけだ。
里子は少し腹を立ててもみたが、一人夜の庭で怒ったところでぶつけるものは何も無いし、
百合の言い分も、分からなくもなかったので、ここはひとまず大人になることにした。
「いいよ。何すればいいの」
  ―聞いてくれるの?
「うん。あたしに出来る事ならね」
百合は見た目にも嬉しそうにゆらゆら揺れて喜んだ。それを見たらさっきの怒りはどうでもよくなってしまった。この百合はまだまだ幼くて、そして素直なのだ。
  ―お願い、というのはね。絵を取って来てほしいの
「絵?」
  ―ある場所にあるのだけれど。私は動けないから。
里子は聞くべきではないのだろうな、と薄々思いながらも、好奇心に負けて問いかけた。
「花が絵を持ってるの?」
  ―持ってちゃいけないの?
予想通り、百合は怒った様子でまだ水々しい青い葉を揺らした。里子は慌てて手で否定しながら疑問を全て投げかける。
「だって、あなたは私がずっと育ててきた花じゃないの。芽が出る前からずっとよ。
 それなのに何時の間に絵なんて持つ暇があったの?」
百合は少し黙り込んで考え込んだが、少し頭を揺らして里子の背後にある静まり返った白い家を見つめた。
  ―正確には、私じゃなくて私の・・・先輩?になるのかしら。その花の持ち物なのよ。
  土に残された彼女の意思を、私は叶えたいの
「先輩・・・?私がこの花壇で育てた花のどれかなの?」
  ―違うわ。もっと、ずっとずっと昔。それでも土は覚えているの。
この家は確か、祖母が子供の頃から住んでいる家だ。土もそのままなら、その先輩の花というのは、祖母が育てたのかもしれない。
それなら、自分にもまったく関係の無い話でもなさそうだ。
「わかった。どこにあるの」
  ―後ろを見て
 百合に促されて振り返り、里子は一瞬何があるのか分からなかった。正確にはそこには何も無いのだが、百合の白い光のせいで、目がまだ闇に慣れていないのだ。
一生懸命目を凝らしてみて、ようやく理解した頃には、知らないうちに尻もちをついていた。祖母が丁寧に手入れをした庭の真ん中に、ぽっかりと黒い穴が顔を出していた。
里子はその黒穴よりも、庭の緑が無くなってしまった事にひどく動揺したが、ここまできたら、夢なんだ、と信じ込むしかなかった。
そうじゃないと、祖母と一緒に手入れした庭に穴を開けられた、ひどいいたずらに頭に血が昇りそうだ。里子は自分が思っていた以上にこの庭が大好きなのだ、とどこか冷静な頭が結論を出した。
「まさかと思うけど、あの中にあるとか言わないよね」
穴を見つめたままで恐る恐る問いかけると、予想通りの返事が返ってきた。
  ―そのまさか、よ。リコ
百合が初めて里子の名前を呼んだが、あまりの出来事に普通に受け入れてしまった。里子は何度も目をこすって見るが、やっぱりそこにあるのは闇夜の中でも一際暗い穴だ。
里子が押し黙っていると、百合は元気づけるように声のトーンを一つ上げた。
  ―大丈夫よリコ。一人じゃないわ。ちゃんと案内役を頼んであるの
花が頼んだ案内役・・・あぶら虫か蝶か・・・蜂は嫌だなぁ、と里子がぼんやり頭の隅で考えていると、足首に暖かい何かが触れて、里子は思わず悲鳴を上げて後ずさった。
  ―大声出さないで、リコ。緑さんが起きるじゃないの
「ご、ごめん」
 緑というのが祖母の名だ。確かに今祖母が起きてきたら、失神するかもしれない。何しろ深夜に孫娘が百合と会話をしているのだから。
でも案外のんびり屋の祖母は里子を見てにっこり微笑んでくれるかもしれないなぁ・・・
そんな事を考えてボーっとしていたせいで、新たに聞こえてきた声にすぐには気付けなかった。
『そうか。それは良かった』
なんだか渋い俳優のような、耳に心地よい素敵な声だ。父親の声もこんなだったらいいのにな、と思い、声のする方を見て、また悲鳴をあげそうになった。
白百合の前にちょこんと座って話しているのは、祖母が飼っている猫のシャムだ。
「シャム!?」
『こんばんは。リコ』
灰色の毛をした猫が、頭をこちらに向けて挨拶をしてきた。訳も分からないまま里子はこんばんは、と返す。
「え、え、案内役ってシャムなの?」
思わず両手をついて百合に顔を寄せると、百合の香りが鼻をくすぐった。
  ―そうよ。シャムさんとはお友達なの。
少し得意そうに、百合は胸を張る。
シャムはいつの間にか祖母の家に住み着いている猫で、あまり人に関心がないらしく、里子が居ても居なくてもいつも庭の隅で居眠りをしていた。
滅多に動く姿を見ないので、かなりの高齢猫だと密かに思っていたのだが。
『よろしく、リコ』
「あっ、はい。こちらこそよろしく」
声からすると、まだ少し若いらしい。里子は心の中でシャムに謝罪しておいた。
灰色猫はゆっくり立ち上がると、すたすたと穴の方へ歩いて行く。
「えっもう行くの?」
  ―言い忘れてたけど、あんまり穴の中に長居しちゃ駄目よ
シャムを追いかける為に立ち上がった里子に、百合は注意深く指示した。思わせぶりなその言い方に、里子は百合を真上から覗き込む。
「何かあるのね。まぁちょっとは分かってたけど」
  ―朝が来ると閉じ込められてしまうから。この穴は夜の間しか現れないの
大体予想の範囲内だな、と里子は一つ大きく息を吸った。今自分が踏み込んでいる、ちょっとしたファンタジーには、もちろん障害の一つや二つあって当然なのだ。
体の中の空気を全部出してしまうほど息を吐いて、里子は気合を入れてシャムの隣に並んだ。近くに来てよくよく見ると、中には黒い螺旋階段が渦を巻いて下へと伸びている。 飛び降りる羽目にならなかっただけましかな、と里子は一度百合を振り返って手を振った。
「じゃ、行ってくるね」



 常識で考えれば意外だが、ファンタジー路線で考えればごくごく普通の事なのだ、と里子は素直に感激しておく事にした。
百合と話が出来た時点で、物語のような夢の世界の始まりだったのだから。
暗い螺旋階段をシャムの背中を頼りに下りている時はいつ転げ落ちるかと細心の注意を払わなければならなかった為に気を張り詰めていたが、下りる先が明るい事に気付いた時には思わず安堵のため息がこぼれた。暗闇の先には暗闇だけ、という考え方は、この夢の世界には似合わないらしい。
最初は蝋燭の灯りほどの小さな光も、近づくにつれ大きな密集となり、最後の段を降りた時にはそれらがはっきりと姿を現しているのに感激してしまった。
それらはちょうど里子の腰あたりまでしかない、小さな街のようだった。
砂糖細工のような可愛らしい丸い曲線の家や、飴細工のような琥珀色をまとった店まで、里子の両脇にずらりと並んで立っている。
それらには小さな小動物や虫たちが出入りしていて、蝋燭の灯りまでもが街の屋根の上を飛び跳ねている。突然の来訪者も気にも留めずに、彼らは彼らの日常を過ごしているようだった。
是非この情景を何かに残してみたい、とちらりと考えた里子だが、あいにく絵の才能も無ければ文章力も無い。
きっと二度と見られないこの風景を、里子は記憶に焼き付けておこうと、弾む気持ちで街を歩いていたら、先を進むシャムに叱られた。
『リコ。忘れてはいけない。時間が無いんだよ』
父親が子供を諭すような真剣な声に、里子は思わず我に返った。そういえば、里子が祖母の家に来たのは深夜だった。夏の日の出を考えると、残り時間は少ないはずだ。
里子は慌ててシャムを追いかけた。

通りをまっすぐに歩いていたシャムが、ようやく立ち止まったのは、街の一番端っこの広場だった。
公園のような役割をしているらしいその広場には、花をつけない緑があちらこちらで顔を見せていたが、目の前にある緑は他のより少し大きくて、卵のような形をしていた。
「これ何?」
シャムがその前で座り込んでしまったので、里子も隣に座って聞いてみる。灰色猫はひげをピン、と伸ばしてその瞳に緑色の卵を映し出した。
『これが土に残された花の意思だ』
里子はまじまじと見つめてみる。大きさはバスケットボールくらいで、つたの葉がぐるぐると何かを囲んで出来ているようだった。
「どうすればいいの?」
『触れてごらん』
 シャムに促されて、里子は一つ深呼吸をしてからゆっくりと右手を伸ばした。百合に触った時のように、人差し指でそっと葉の表面を撫でてみる。
すると、つたの葉はぶるっと身震いをしたかと思うと、葉をざわつかせながら地面へと勢いよく吸い込まれていった。その後には、小さな掌サイズの四角い板がゆったりと浮かんでいる。
里子は思わず眉根を寄せて、浮かんでいる小さなキャンパスを覗き込んだ。 確かに絵が描かれているようだが、何しろ小さすぎる。恐る恐る手を伸ばして触れてみると、意外に重量感のあるキャンパスをしっかりと掴む事が出来た。
両手に持ってよく見てみると、左側に白い花、右側にはその花と同じ色をしたワンピースの女の子が描かれているようだった。だがあまりに小さすぎて顔までは分からない。
里子があれこれ考えていると、シャムが里子の膝の上に飛び乗ってきた。
「うわっびっくりした。何?シャム」
『何じゃないだろう。夢中になるのは構わんが、今は戻る事を最優先に考えてくれないか』
少し困ったようなシャムの瞳がくるりと回る。こんなに近くでシャムの顔を見た事が無かったのだが、こうしてみればなかなかハンサムな顔立ちだ。
また考え事に夢中になりかけて、シャムの重さに我に返った里子は、絵を左胸のポケットに収めて立ち上がった。
『走った方がよさそうだ』
シャムは鼻をひくひくとさせて少し上空を仰ぎ見てから、猫独特の速さで一気に街を駆け出した。
里子は置いていかれないようにしつつも、通りを歩く虫や小動物に気をつけて走らなければならなかったが、さすがの虫達もこれには気付いたようで、里子の足をなんなくすり抜けて道を開けてくれた。
『頑張れ、リコ』
自分は黒い階段に片足を乗せたまま、シャムはまだ街の真ん中を走っている里子に声援を送る。 里子はわかってるよぅと口の中で返事しながら、なんとか階段の手前まで来る事が出来た。
『休む暇はない。あと少しだ。リコ』
 灰色猫は里子が追いつくなり軽快に飛び跳ねながらさっさと階段を上って行く。無常な現実に不満な声を上げてみても、目に見えない程真上に伸びるこの階段が縮むわけでも、時間が止まるわけでもない。
里子は短く息を吐くと、助走をつけて一気に階段を上り始めた。
上り始めて間もなく息が切れる。自分の体力の無さを嘆きつつも、上る足を止めない所は褒めてほしいなぁと、もう豆粒ほどの大きさになってしまったシャムの後ろ姿を見上げた。
「シャム〜待って〜」
なんとも情けない声だ。なんだか父親が母親に小遣いをねだる声に似ているかもしれない。だけどシャムは少し振り返っただけで、降りてこようとはしなかった。
『頑張ってくれリコ。君は君自身が上らなければならない。私は助けられないのだから』
確かにシャムの言う通りだ。いくら話せるとはいえ、猫におぶってもらうわけにはいかない。里子は少し立ち止まって膝に手をついてしばらく息を整えた。
暗闇というのは時間の感覚が分かりにくい。時計を持ってくれば良かった。
母親が誕生日プレゼントに買ってくれた赤い腕時計があるのだが、滅多につけることもなく、机の端にほったらかしだ。
せっかく時間を守るように、と買ってあげたのに、と母親がいつも怒っていた。こんなことなら次からは何があってもあの時計を持ち歩こう。
「しっかりしろ里子!まだ夏休みは始まったばかりなんだから!」
自分に活を入れて、螺旋階段の先を見上げて目がくらみそうになった。出口になるらしいその先に、かすかにオレンジ色が滲んでいるのだ。

まさか。もしかして。

『急げ、リコ。夜が明けてしまうぞ』
焦ったシャムの声が響いてくる。里子は慌てて階段を駆け上った。
心臓の音が外にまで響いている。自分の荒い呼吸がさらに体力を蝕んでいく。それでも確実に、里子は出口へと近づいている。はずだった。
なんど頭を上げて上を見ても、出口の穴は見つからずにオレンジ色だけが広がっていく。
このままこの夢の世界にいる事になったら、あの虫達は歓迎してくれるかな、と半ば諦めにも似た妄想が浮かんできた。

  ―しっかりしなさいリコ。諦めないで

母親の声がする。いつも一言目には口にする台詞だ。
『リコ!あと少しだ』
やっぱり何度聞いてもこれが父親の声だったらなぁと思う。

  里子 頑張って 

   これは聞いた事のない声だな、と里子は自分がいつのまにか目を閉じている事に気付いた。
足も動かしているのかどうか分からない位、体の感覚が消えている。
無重力の中に放り出されたような、妙な感覚のまま、ただ左胸のポケットの絵の事だけを考えていた。
あの絵の女の子は誰なんだろう。なんだか知っている子のような気がする。


   里子 里子 絵を持ってきてくれて ありがとう

 聞いた事のない声がお礼を言った。

 少しだけ、祖母の声に似ているような気がした。



「里子!いい加減起きなさい!何時だと思ってるの!」
突然直に耳に響いた声に、里子は弾かれたように飛び起きた。
お気に入りのタオルケットが宙を舞う。その先に、部屋の扉を大きく開け放して仁王立ちしている母親の姿が見えた。
「夏休みだからっていつまでも寝てないで、さっさと起きなさい!」
朝から何だか元気だなぁ、とまだ眠気の覚めない頭で考えていたら、額をコツンと叩かれた。まったくこの子ったら、誰に似たのかしら、とつぶやきながら母親は部屋を出て行く。
やっぱりこの声はあの百合の声と同じだ。
すると、思い出したように母親が振り返った。
「そういえば、おばあちゃんから電話あったわよ。起きたらいらっしゃいって」
 おばあちゃん。
里子の頭が一気に目覚めた。慌てて飛び起きて手探りに枕元の目覚まし時計を掴む。
針はもうすぐ十時を過ぎようとしている。夏休みだからって目覚ましをかけるのを忘れてしまった。
里子は急いで寝巻きを脱いで適当に出した服に袖を通す。部屋を出る直前にきびすを返して机の端に置いてある腕時計を掠め取った。


 もう昼近くになるせいか、アスファルトの地面は熱を帯びてじわじわと暑さが襲ってきたが、庭に入った途端に涼しい風が里子の頬を撫でていった。
水巻きを終えた庭は、夏の日差しをうけてきらきら輝いている。里子はやっぱり夢だったかなぁと半ば落ち込みながら歩を進めた。
帰ってきた記憶も着替えた記憶も一切無い。これってよくある夢オチってやつなのかも。
だったら百合が咲いたのだって、夢の一つだったのかもしれないじゃないか。
なんだか足が重くなって、一度立ち止まり深呼吸を繰り返していると、足に擦り寄ってきた暖かい生き物がいた。灰色の毛皮を着た猫が、にゃあ、と低い声で鳴く。
「シャム!」
 里子は思わず嬉しくなって、シャムをぐいと掴んで抱きしめた。突然の抱擁にシャムはいくらか驚いた様子だったが、足をばたばたさせながらも逃げる事なく里子の腕の中に納まってくれていた。
いつもは関心の無いシャムが自分から近づいてきてくれたのだ。あの夢も、全部が全部、夢ではないのかもしれない。
里子は期待に胸を膨らませて、シャムを抱えたままゆっくりと庭の先へ歩き出した。

 赤いレンガの丸い花壇の中に。
水の宝石で飾られた白い百合が立派に顔を出していた。
里子は満面の笑みを浮かべて走り寄る。もう声は聞こえなかったが、心が通じ合ったような気がして嬉しかった。
「おはよう。里子さん」
背後からよく通る声が掛けられた。里子を呼び捨てではなくさん付けするのは、祖母だけだった。里子はその笑顔のまま振り返る。
淡い黄色の服を着た祖母が、ウッドデッキから姿を見せていた。幾重にも刻まれたしわがにっこりと笑顔を作っている。
「おはよう、おばあちゃん。百合、咲いたよ!」
「ええ。とても綺麗ですね」
誰に対しても上品な言葉使いの祖母は、笑顔の里子を眺めて嬉しそうに微笑んだ。
なんだか祖母まで嬉しそうだ、と里子はシャムを下ろして家へと駆け寄る。
「なんだか嬉しそうね、おばあちゃん。いい事あった?」
祖母は ふふ、と笑って目配せをする。朝ごはんを食べていなかった里子は、促されて家の中へと入って行った。
 カントリー風のこの家の中も、里子のお気に入りの場所だ。クリーム色の壁には、いつも小さな絵やドライフラワーが飾られていたが、今日は一際大きな絵が里子の目を奪った。
何もなかったはずの壁の中央に、少し古ぼけた額縁に入った、両手で抱えられる位の大きさ絵が現れたのだ。しかも、その絵には見覚えがあった。
「お、おばあちゃん。これどうしたの?」
動揺を隠しつつも声が揺れて、キッチンでお茶を入れていた祖母が顔を見せた。
「少し不思議なお話なんだけれど。今朝起きたらそこに飾られていたの。
 この絵は昔、私の父が描いてくれた絵なんです」
驚く里子の隣に立って、しげしげと絵を見つめる祖母の横顔は、描かれている女の子の頬と同じ桃色をしていた。
「初めて自分だけで育てて咲いた花の記念、に。
 実は私が最初に育てた花は、白百合だったんですよ」
いたずらっぽいお茶目な笑みを浮かべて、祖母は笑った。
「いつの間にか無くなっていたのだけれど。誰かが届けてくれたのかしらね」
そう言いつつも、祖母は何だか分かっているようだった。
もしかしたら、祖母も昔、里子と同じ体験をして穴の中に入って行ったのかもしれない。

 里子は、絵の女の子と同じように、微笑みを浮かべてみた。
いつの間にか入ってきた灰色猫が、にゃあ、と一声鳴いた。


   終



::BACK::