スカート




千早は走っていた。
なぜ走っているのか忘れてしまいそうなくらい、もう長いこと走りつづけていた。

 走り始めた時には小振りだった雨が、顔にあたり不快になるほどの大きさの粒へと変わっていた。
ぼたぼたと頭上へ落ちてくる雨粒が頭皮を伝い、
くたくたになって感覚 のなくなってきた体とは逆に頭の中を冴え渡らせていく。

 手に手繰り寄せた朱色のワンピースの裾に泥水や空から降る水がかかり、どす黒い色へと侵食してきている。
脱げた靴を拾う間もなく走っていたから、素のままの足の裏に背の高い草の間から芽を出し始めたばかりの下草がチクチクとあたる。
ずっと降りつづけている雨でふやけ た地面の泥で滑りながらも、後ろを振り返らないよう走りつづけていた。

 もう、ずいぶん前に脱げてしまった両方の靴は、どこかの沼地に沈んで、また一足の靴として一緒にいるのだろうかと、頭の隅で考えながら、取りに戻るために足を止める事すらできなかった。

 後ろから追いかけてくる音はしなかったけれど、どこかから見られている視線をひしひしと感じていた。足を止めたら捕まる。
そう思うと、くたくたにくたびれた足を止めることはできなくて、それ以上に棒のように機械的に動かしつづけている足を止める方法を忘れてしまっていた。
止まるとし たら、この棒になった足が折れたときだろうか。
そう思いながら走りつづけていた千早の前に、とうとう身を隠す事のできる草原の終わりが現れた。
背の高い草がなくなる沼地には身を隠せるような物が見当たらない。その先の森になら大きな木が生い茂っているのに。
草原を出たら、沼地を通り大きな川を越えたらその先は安全かもしれない。
止まっている暇はない。と最後の一房の草を握り締め、足を踏み出そうとした・・・そこで、記憶は途切れた。



 ふかふかのベッドに寝ていた。とっても白くていい匂いがする。安心する匂い。
千早は深く息を吸い掛け布団を思いっきり引き上げて、寝返りを打った。

  そうだ。逃げていたんじゃなくて追いかけていたんだ。

  そして、失敗した。

 ベッドの横にある大きなティディベアが千早を見ていた。
突然のことで、目がぐるぐる回った。
勢いよく掛け布団を跳ね除けると、窓から部屋に差し込む光を全身にあたった。朝だと思っていた日の光は黄色みをおびて、昼に近い事を示している。
千早はベッドに腰掛けて今までのことを思い出そうとしていた。

 なぜ、自分はベッドで寝ているのか。
どこで間違えた?
どこから追いかけられていると思いこんだ?

すっぽりと抜け落ちた記憶のかけらを必死でかき集める。

 ここはどこ?
 私は何に失敗した?
 何を手に入れようとしていた?

 あせる気持ちばかりが強くなり、何も手につかめない。細かく裁断された記憶もピースが多すぎて、あふれ落ちていくばかりで何も思い出せなかった。
ぐるぐると回る頭の中で、クローゼットの中にあの朱色のワンピースがあることだけは分かっていた。
見覚えのないこの部屋の中の机の引出しに何が入っているかも、開 けた事のないクローゼットの中の様子も頭の中に浮かんでいた。
ここは私の部屋ではない。そんな気がしているのに、千早にはこの部屋の何もかもがわかっていた。
あのクローゼットの中でハンガーにかけられて待っている。
あのワンピースに袖を通せば、あの場所に戻ってまたやり直せる。なぜだか千早はそう思い込んでいた。
知っているとは言いがたいような身震いを感じて、じっとベッドに腰掛けてティディベアをにらみ付けた。
 あの場所へ戻る。そう考えるだけで、雨に濡れたように頭のてっぺんから足の指の間まで一気に汗が噴出した。
夢の中ではない、全身の疲労。足の裏にあたる草の感覚。
何もわからない今と、何もかもを知って走りつづけているあの場所。
どちらが現実なのかはわからなかったけれど、足を踏み出すには勇気がなくて、あの場所へ戻る理由もわからなかった。
戻ったとしても、千早には追いかけていたのだということを覚えていられる自信もなかった。
また、忘れてしまう。こっちで全て忘れてしまうように向こうではこっちで知っていることを忘れてしまうようだ。
締め切った窓の外から車が走る音。子供が遊ぶ声がしてきた。
光を良く通す、薄い カーテンを細く開けて外の様子を眺めてみた。まぶしい光が差し込んで千早は思わず目をそむけた。
ふと、目をそむけた先にあった足が泥で汚れているのに気が付いた。
 なぜ、足がこんなに汚れているんだろう?寝る前に、お風呂に入らなかったんだろうか。
だいたい、外に出るときにはお気に入りのあの靴をはいて出かけるはずなのに。
千早はクローゼットの中の箱にきちんと収まった靴を思い浮かべようとしたが、ちゃんと思い出す事ができなくなっていた。
「だって、確かにこのクローゼットの中に・・・」
ベッドを降りてクローゼットへと早足で近寄り小さく飛び出たつまみを勢いよく開いた千早の目に、開けっ放しの白い靴箱とあの朱色のワンピースがはためいた。


千早は、またあの場所へと戻っていた。
また、走りつづけるために。


― 了 ―



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