サカナ




さわやかな五月の風が部屋の中を通りすぎていく。

風が耳を撫でたその時に、幼い子供の泣き声がまじって聞こえてきた。
よく耳をすませてみると、なるほど、入り口の方から か細い声が聞こえてくる。
 これは珍しい。
重い腰を上げて、ふわふわと揺れる白い床に足を踏んばらせながら、ゆっくりと入り口へと歩いていく。

明るい光の中で、幼い坊やが小さくなって震えていた。
「おや、いらっしゃい」
「誰」
声をかけると、肩をびくっと震わせて、幼い坊やは顔を上げた。
大きなその瞳には恐怖の色が浮かんでいる。
「それはこちらの台詞だよ坊や。まあいい。珍しいお客様だもの。ゆっくりしていくといい」
坊やが落ち着くまで、と、その場に腰を下ろしてひげを撫でる。

吹き抜ける風が、今度は甘い花の香りを振り撒いていった。

坊やはしばらく黙っていたが、やがておずおずと声をかけてきた。
「ここはあなたのおウチなの」
「この時期だけの秘密基地、といったところかね」
肩をすくめて言ってみると、坊やは顔を拭ってその場に座り直した。
この『秘密基地』にお客が来るなんて珍しい。この子はよほどの方向音痴なのだろう。
「ひみつきち」
坊やはフワフワする足元を見てつぶやいた。白い部屋の周りには、赤い扇の形の模様が揺れている。
今気付いたというように、彼は坊やの顔を覗き込んだ。
「おやどうしだんだい?顔が濡れているようだが」
坊やは慌てて両手でごしごしと顔を拭ってみたが、両目は赤く腫れたままだ。
「泣いてるの」
小さくなりながら、坊やは潔く認めた。
面白い子だ、と彼は笑いながら問いかける。
「ほう。それはまたどうして」
彼の優しい声に安心したのか、坊やの大きな瞳からはみるみるうちに大粒の涙がこぼれてきた。
「だって、ボク食べられちゃったんだもの」
「ほう!」
彼は愉快になって、坊やの話に耳を傾ける。
「すっごく、すっごく大きなサカナ。いつもみたいに散歩してたら、いきなりバクって」
「食べられたというわけか」
「うん」
坊やはしゃくりを上げながら頷いた。
なかなか勇敢な子だ、と彼は感心して何度もうなずいた。
食べられた瞬間にもちゃんと目を開けて自分の行く先を見ていたのだから。
サカナの正体を知っている彼は、真実を教えるべきか迷ったが、やはりそれは言わない事にした。
ある時期にだけ、大空を坊やと同じように泳ぐ魚がいることは、今回の事でよく分かっただろう。
彼はあえてサカナの正体には触れずに坊やを安心させてあげる事にした。

「でもそれではおかしいなあ」
「どうして」
坊やはびっくりして尋ねた。彼は髭を撫でながら諭すように優しく答える。
「食べられたらね、周りは真っ暗になるものなんだよ」

周りは白くてとっても眩しい。

「それに、サカナの腹の中はじめじめしていて、ほら、このように風も吹き込まないものさ」

涼しい風が坊やの背中を撫でて通り過ぎて行く。


坊やは口をぽかんと開けて聞き入っていたが、やがて瞳を輝かせて立ち上がった。
「じゃあボク生きてるの」
「そうだろうね」
「皆の所に帰れるの」
「坊やが道を覚えていればね」

坊やはようやくにっこりと笑った。

 「安心なさい。後でおじさんが出口まで連れていってあげよう」
おじさんはニヤリと笑った。












坊やは小鳥、おじさんは…まあ虫とか。サカナはこいのぼりです。
小鳥にとっては空を泳いでるでっかいサカナ。

ゆこ


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