笛吹きのノイ
ここは一番最後の終わりの町。全てが眠りにつく安らぎの場所。
この町では皆が皆役割を持っている。
生まれたての赤ん坊でさえ、忙しく働く母親を引き止めて、癒してあげる役割があるのだ。
5つか6つの年を巡ると、それぞれに合った役割が向こうからやってくる。
それを喜んで受ける事も、拒否する事もできる。ノイは7つの年を巡った。
かあさんが丈夫な草を隙間なく編んで作ってくれた長靴に足を深く突っ込んで、足が馴染むようにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
大事な笛の入ったポーチを肩から下げ、布に穴を空けただけの簡単なマントを頭から被る。
行ってきまぁすと藁葺きの小さな家に声を投げ掛け、返事を背中に受けながら小路を走り出す。
黄色いお日さまは、少しだけ首を傾けて微笑んでいる。
今日は早めに合図をしないといけない。大切な祭の日は、すぐに『夜』にしないと大人が文句を言うのだ。
大好きなお酒やご馳走を、たらふく食える日だから、と、この辺りの地区担当のノイはうんざりするほど聞かされていた。
丘を下って町の道に出ると、大通りにはすでにそこら中の家から持ち寄った酒や食べ物がずらりと並べられている。
すでに顔の赤い酒場の主人が、ノイをけしかけるように手を振った。ノイは愛想笑いを浮かべておいて、さっさと立ち去ろうと足を早める。
酔っ払った大人よりも、やっかいなものに捕まりたくなかったのだが。
まるで待ち構えていたように、左右の家の脇から2、3人の子どもが現れて、<ノイの行く手を阻むように立ち塞がったのを見た時には、
こっそりため息をつくしかなかった。
「よぉ、泣き虫。そんなに急いでどこ行くよ」
真ん中のユジがにたにた笑いを浮かべながら声をかけてきた。
この地区の子どもの中で、一番体格の良いユジはいつもノイを泣き虫と呼ぶが、実際ユジの前で泣いた事は一度もない。
相手をけなす言葉の一番が『泣き虫』だと思い込んでいるらしく、否定するのも面倒なので、ノイは何も言わないようにしていた。
ユジはノイのポーチを見てうんざりしたように顔をしかめた。
「お前、まだ笛吹なのか。ほかの地区のお印は皆ラッパ吹きなのに」
「こいつには無理だよ。貧乏ノイには一生かかってもラッパには手も触れられないって」
右隣のカーズがお菓子をくちゃくちゃさせながらせせら笑った。ノイは言われ慣れているせいか、腹もたたなかった。
左隣のひょろりと細いバンジが、ノイの隙を狙ってポーチの肩紐を引っ張った。
ふいに胸に紐が食い込んで、振り払おうと体を捻ると、紐は簡単に契れて、地面へと滑り落ちてしまった。
ノイは慌てて拾おうとしゃがみ込んだが、指が届くより早くバンジがつま先で蹴ってカーズの足元へほおりだす。
ノイがそれについて移動したのを見て、面白い遊びを見つけたとばかりに二人は交互に蹴り合い、時には片手で掴んで投げ合った。
ノイは慌ててポーチを追い掛けるが間に合わない。次第に風が冷たくなってきたのを頬で感じて、ノイは声を上げた。
「やめてよ。僕もう行かなきゃ」
「ははっ僕だってよっ」
カーズが、バンジの方にほおり投げて、舌を出してけらけら笑った。
「女のくせに、生意気だぞー」
両手でポーチを受け取ったバンジが、人差し指と親指でつまんでひらひらと見せつける。
だがかしこいノイは、向かってもまた投げられるだけだとさっきから黙って見ているユジに視線を向けた。
「ユジ。行かなきゃならないんだ」
懸命になってユジの目を見つめた。ユジも黙って見つめ返す。辛抱強く見つめていると、ユジは先に目線をそらした。
「バンジ」
名を呼ばれたバンジは、つまならそうにポーチを見たが、何かを思いついたように笑みを浮かべると、
片手でポーチをわしづかみにして、思い切り腕を振りあげて投げ飛ばした。
ノイは息を短く吸ってポーチの描く円を目で追ったが、その先にあるものを思い出して急いで駆け出したが間に合わなかった。
ポーチは空を舞って飛び、家の裏手にある茂みへと飲み込まれて行った。
ノイは急な崖になっている側まで駆けたが、深く生い茂った緑を見るとそれ以上は進めなかった。
降りられない高さではないが、降りて探すには時間が掛かり過ぎる。空を見上げれば、黄色いお日様はほんのり赤く顔を染め、山裾へとしずしずと下っている最中だった。
もう時間が無い。
ノイの後ろで、二人がげらげら笑い転げている。泣け泣けとはやし立てられたが、ノイはそれどころではなかった。
確かに胃がきゅうっとしぼみ、喉元が焼けるように熱かったが、今は泣くより先に、やらねばならない事がある。
ノイは三人に顔を見られないようにしてその場を走り去った。
あっという間に町の端にたどり着き、高い円柱の外側の階段を駆け登る。
頂上まで来ると、ノイは両手をついてしゃがみ込み、しばらく息が整うまで黙っていた。
それから、背中を延ばして真上を仰ぎ見る。
東の端から、夜の精が黒いカーテンを引いて歩いているのが見えた。その下から、かすかにラッパの音が聞こえてくる。
この町の四方にあるお印の塔からラッパを吹いて、夜の精を歓迎する儀式を行わなければ、夜の精はへそを曲げてカーテンを引くのをやめてしまうのだ。
そして、町に夜の時間を知らせるという役割も担っていた。
ノイはやみくもに走ってきたもののどうすればいいかわからずに途方に暮れた。
ただ声を上げて叫べば、夜の精は気付いてくれるだろうか。だが彼等はラッパや笛のような、空の芯にまでよく通る高い音を好む。
ノイのような子どもの声では、高い声は出せても町の端にだって届かないだろう。ノイは悔しくなって奥歯を噛み締めた。
三人が自分をいじめる理由は何となくわかっていた。お印の塔に昇るのは、ユジの勤めだった。
だが、一年前に花のつぼみ洗いの役割を渡された時に、ノイは無理に頼み込んでユジに変わってもらったのだ。
お印の塔の笛吹きは、死んだ父の仕事だった。2歳の時に病気で死んでしまったために記憶はほとんどなかったが、
母や祖母から聞かされる話と父の形見の笛がノイと父親の繋がりだった。
まだ幼すぎると反対もされたが、ノイの奏でる透き通るような笛の音に、皆納得してくれたのだ。
だがユジにしてみれば役割を取られたようなものだ。怒っていても無理はない。
残り二つの塔からも、甲高いラッパの音が響始め、三つの音が夜の精を讃える曲をかなではじめる。
ノイはぼやけた視界で空を見上げた。歌に上機嫌になった夜の精がステップを踏みながら笑い合う声が聞こえる。
空の半分を覆ったカーテンには、小さな尾のついた灯虫がちょろちょろと動き回り、縫いつけられた星のランプに灯りを点していた。
夜の精の視線を感じて、ノイは空しくなって口を一文字にきゅっと結んだ。拍子に熱い涙が一筋流れ落ちる。
始めて、自分の役割を果たせない日が来てしまった。ノイはまだ7つだが、任された役割を大切に思っていたし、
何より笛を吹いて町に星明かりのカーテンが天空の風に揺れているのがとても好きだったのだ。
夜の精がノイを見下ろして笑っているような気がした。空は滲んでよく見えなかったけれど。
「こんばんわ」
ノイの背中に、誰かが声をかけた。いつの間にか、お印の塔にはノイのほかに知らない男が立っていた。
ノイは慌てて頬を流れる涙を袖で拭いて目の前に佇む男をよく観察してみた。見かけた事のない顔立ちは若く、あと一月二月で大人の仲間入りをするような年頃だ。
長いマントは膝下まで流れ、その下から覗く黒いブーツは薄汚れていて長い旅人の証を示していた。
「こんばんわ」
先ほどから変わらぬ笑みを浮かべて男は再度あいさつをした。ノイはそれでも警戒心を捨てきれずに黙っている。
どこの町でも村でも、夜を知らせるお印の塔はあるばずだから知らずに上ったという事は考えられない。
男はそれに気付いたらしく、精一杯の優しさを含んだ声で名乗った。
「初めまして。私はガイアと申します。」
言いながら、このままでは失礼だと思ったのかノイと同じ目線の高さになるように片膝をついた。男の物腰の優しさに、ノイは驚きと共に心が落ち着いていくのを感じていた。
「こんばんわ‥」
小さな声で挨拶を返すと、ガイアはにっこり笑った。
男は呼ばれたように空を見上げた。ノイもつられて見上げて息を飲んだ。
カーテンはノイの頭上に揺れて、夜の精は怒ったように端をつかんでばさばさとカーテンを揺らして暴れている。
高い波が天空まで遡り、そこにいた灯虫がちりぢりに逃げていった。
夜の精の黄金色の視線が胸に突き刺さってノイは身動きができない。
すると、ガイアがそばまで来て優しく肩に手を置いた。ふいに心が軽くなってノイはガイアを見上げる。
ガイアは微笑みを返すと、左手に持っていた金色の筒を掲げた。
目で辿ると、先は花が咲いたように丸く広がっている。ノイは釘付けになった。本物を見たのは初めてだが、聞いていたとおりだった。
わずかに残っている陽の光がちかりとラッパの上を滑りながら流れる。ガイアは目配せをしてノイの肩から手を離した。
それからのガイアはまるで一枚の絵画のようだった。
ゆっくりと朱色から紫、紺色へと変わりゆく様を背景に、ガイアは物腰は静かに、ラッパを吹く姿は情熱的に夜の精を歓迎する歓喜の歌を奏でた。
ほかのラッパと共に、いや、その中でも一番天の真に届くのはガイアの音だった。
隣で引き付けられるように見つめていたノイは、ガイアの隣に立って息を合わせて奏でる男が星の色をまとってかすかに見えるのを黙って見ていた。
記憶の奥底にいつも存在するその人は、楽しそうに身を揺らしながら銀色の横笛で歌うように演奏している。
いつのまにか熱い涙が頬をつたって流れていた。
ラッパの演奏の中に透明な笛の音がノイの耳には確かに聞こえたのだった。
「貴方のお父さんは僕のお師匠様なんですよ」
空はすっかり星空に変わり、夜の精はすっかり満足して月の家へと帰って行った。
ガイアが、背負っていた袋から小さなランプを取り出し、飴色の温かな明かりが二人を包み込んでいる。
二人は塔の上に腰を降ろして話をしていた。ラッパは飴細工のように光を照り返して休んでいる。
ガイアはジャムを練り混んだ小麦粉の保存食を割ってノイに差し出した。
「お師匠様?」
ガイアは微笑んでうなずいた。
「僕の音楽のお師匠様です。僕に音楽を奏でる楽しさを教えてくれた人なんですよ」
ガイアは昔この町に住んでいたのだという。最初にやってきた役割はラッパ吹きだった。
叔父から受け継いだラッパを受け取ったが、ガイアは厳しい指導が嫌で嫌で仕方なかった。そんな時、いつも気になっていた、西の塔の笛吹に出会った。
まだ若いノイの父親は役割に誇りを持ち、喜びも持っていた。ガイアは感動して慕うようになり、世界を見たいという夢を叶えて旅立った。
「お亡くなりになったことは遠い便りで知っていました。最後に会った時に赤ん坊だった君が笛吹になった事も。
久しぶりに帰ってきたら、笛の音が聞こえなくて驚いたんですよ」
「それは‥」
「そんな顔しないでください。今夜はうまくいったのだし、笛もちゃんと戻ってきますよ」
確信的に言うガイアは不思議な顔をするノイににっこり笑顔を見せた。それから、父親の話をたくさんしてくれた。
塔の役割を離れてからも、時々父と一緒にこの塔から二人で演奏した事も。
驚いて二人で同じ塔に立ってもいいのかと聞くと、ガイアは笑って気持ちが大事なのだと言った。
ひとつの役割を、ふたりで分けたり大勢で分けたり。そんな事ができるのも幸せのひとつなんだと。
帰り道、ノイはまだ夢の中にいるような気持ちで家までの小路を歩いていた。帰る時にいつも使う明かり袋を首から下げているので、足元は明るい。
道の先にある町は明るく、人々のにぎやかな笑い声が聞こえてくる。
ガイアはまだしばらく塔に残ると言って別れた。ノイは早く母親に抱きしめられたかった。
父親が同じ気持ちでいた事が嬉しかった。笛を吹けば、きっとそこには父親も居てくれているのだ。
ふと、顔をあげると、星明かりの下に一人佇む影があった。よく目を懲らして見ると、それはユジだった。
ノイは驚いた。ユジが一人で行動するのを見たのは久しぶりだったからだ。近くまで来ると、ユジは黙って手に持っていた何かを突き出した。
ノイは銀色の光が煌めいたのを目の端に感じた。それは、ポーチに入っていた横笛だった。両手で受け取るとひやりとした感触が伝わってくる。
ノイは信じられない面持ちでユジを見ると、ついと視線をそらしてぼろぼろのポーチを持ち上げた。
「こっちは泥だらけになったから中身だけ抜いた」
布きれになったそれをノイに押し付けると、ユジはノイの背後にある塔を見つめた。
ガイアの点けた明かりが塔の上で輝いている。ユジは不機嫌そうにつぶやいた。
「お前誰かと一緒にいたのか?」
ノイは少し振り返って塔を見つめた。説明するには長すぎる。
「お父さんの友達だって。今夜助けてくれた」
「そういえばラッパの音が聞こえたな」
ノイがこくんと頷くと、ユジはさらに不機嫌そうになった。
「ユジが探してくれたの?」
「あ?」
ノイが笛を持ち上げると、ユジは決まり悪そうに黙った。ノイは灯袋の光がかすかにユジの汚れた服を見て微笑んだ。
「ありがとうユジ」
ノイの笑顔にユジはたじろいたが、小さく、おう、と返事しただけだった。
「行こうぜノイ」
くるりと背を向けたユジから、久しぶりに名を呼ばれてノイは嬉しくなった。そして、ガイアの言葉を思い出した。
二人で分け合える事だってできる。
ノイは笛を握ってユジを追い掛けた。
「ユジ!あのね‥」
そう遠くないうちに、西の塔からは二つの旋律が聞こえてくるのだった。